ウェザー・リポート『8:30』

ウェザー・リポート『8:30』
ウェザー・リポート(Weather Report)『8:30』(エイト・サーティ)

1979年に発表されたウェザー・リポート(Weather Report)の2枚組アルバム『8:30』(エイト・サーティ)は、ジャズ・フュージョンというジャンルの頂点に君臨するバンドが、その創造性の絶頂期において放った画期的な作品です。ライヴ・パフォーマンスの熱狂とスタジオ録音の緻密な実験性という二つの顔を併せ持つこのアルバムは、バンドの歴史における重要なマイルストーンであると同時に、参加ミュージシャンたちの神がかり的な演奏を記録したドキュメントとしても、今なお高く評価されています。

『8:30』(エイト・サーティ)のコンセプト

『8:30』の最も際立った特徴は、LP盤で3面分を占めるライヴ録音と、残りの1面を構成するスタジオ録音というハイブリッドな形式にあります。この構成は、単なるライヴ盤でもスタジオ盤でもない、ウェザー・リポートという音楽共同体の二元的な本質を表現するものでした。

アルバムタイトルの『8:30』は、彼らのコンサートが始まる定刻を指し示していると言われています。それは、これから始まる音楽体験への期待感を煽ると同時に、このアルバムが彼らの「ライヴ」という側面を強く意識したものであることを示唆しています。1977年の『ヘヴィー・ウェザー』で商業的な大成功を収め、世界的な人気バンドとなった彼らにとって、ライヴ・ステージはオーディエンスと直接エネルギーを交換する最も重要な場所でした。ライヴ・サイドは、その爆発的なエネルギーと即興演奏のスリリングな応酬を余すところなく捉えています。

一方、スタジオ・サイドは、バンドのリーダーであるジョー・ザヴィヌル(Joe Zawinul)のサウンド・クリエイター、あるいは「音の建築家」としての一面を浮き彫りにします。ここではライヴとは対照的に、より練られた構成、多重録音を駆使した複雑なサウンド・テクスチャー、そして新たな音楽的アイデアへの探求が見られます。

ドラマーのピーター・アースキン(Peter Erskine)によれば、当初は完全な2枚組ライヴ・アルバムを制作する予定だったものの、レコーディング・エンジニアが誤ってライヴ音源の一部を消去してしまったため、急遽4曲のスタジオ録音で補うことになったという逸話も残されています。このアクシデントが結果的に、『8:30』を唯一無二のコンセプトを持つ作品へと昇華させたのです。

音楽性とサウンドの特徴:黄金カルテットの化学反応

このアルバムで聴けるのは、ジョー・ザヴィヌル(キーボード)、ウェイン・ショーター(Wayne Shorter, サックス)、ジャコ・パストリアス(Jaco Pastorius, ベース)、そしてピーター・アースキン(ドラム)という、多くのファンから「黄金カルテット」と称されるラインナップです。前作『ミスター・ゴーン』(1978年)から確立されたこの4人体制は、バンド史上最もタイトで、かつ個々の才能が最大限に発揮された奇跡的なアンサンブルでした。

ライヴ・サイドの熱狂

アルバムの幕開けを飾る「Black Market」から、オーディエンスの熱気とバンドの凄まじい演奏能力が伝わってきます。原曲よりも高速でスリリングな展開を見せるこの演奏は、アースキンのパワフルかつ繊細なドラミングと、それに絡みつくパストリアスのうねるようなベースラインが強力な推進力を生み出しています。ザヴィヌルはARP 2600やオーバーハイムのポリフォニック・シンセサイザーを駆使し、オーケストラのような分厚いサウンドスケープを構築。その上を、円熟期にあったショーターのソプラノ・サックスが預言者のように自由に舞います。

パストリアス作曲の「Teen Town」では、彼自身が『ヘヴィー・ウェザー』で叩いたドラムパートをアースキンが完璧に再現し、さらに強力なグルーヴを加えています。パストリアスのベースは、もはや単なるリズム楽器ではなく、メロディ、ハーモニー、リズムの全てを内包した独立した声として機能しています。

白眉は、パストリアスの独壇場であるベースソロ「Slang」です。MXRのデジタル・ディレイを駆使したループをバックに、ジミ・ヘンドリックスの「Third Stone from the Sun」や自身の代表曲「Portrait of Tracy」のフレーズを織り交ぜながら、超絶技巧と豊かな音楽性を披露します。そのパフォーマンスは、ベースという楽器の可能性を根底から覆し、後世のベーシストたちに計り知れない影響を与えました。

スタジオ・サイドの実験性

4曲のスタジオ録音は、このカルテットのもう一つの側面、つまり実験工房としての一面を明らかにします。タイトル曲「8:30」は、ザヴィヌルと、なんとドラムを演奏するパストリアスによるデュオです。ミニマルでリズミックなこの曲は、後のザヴィヌル・シンジケートの音楽性をも予見させます。

「Brown Street」は、ザヴィヌルとショーターの共作で、カリプソ風の軽快で遊び心に満ちたナンバーです。ここではパストリアスとアースキンのツイン・ドラムに加え、ザヴィヌルの息子であるエリック・ザヴィヌルがパーカッションで参加し、家族的な温かい雰囲気を加えています。

最も異彩を放つのが、ザヴィヌル作の「The Orphan」です。ショーターの物悲しいテナー・サックスとザヴィヌルのシンセサイザーが織りなす静謐な響きの中に、ウェスト・ロサンゼルス・クリスチャン・アカデミーの児童合唱団による素朴な歌声が挿入されます。この予期せぬ組み合わせは、聴く者に強い印象を残し、ザヴィヌルのコンポーザーとしての非凡な才能を物語っています。

アルバムを締めくくるのは、ショーター作の「Sightseeing」。ここではパストリアスがウォーキング・ベースラインを披露し、バンドはストレートアヘッドな4ビート・ジャズを展開します。アースキンのアグレッシブなドラミングも相まって、彼らがフュージョンだけでなく、ジャズの伝統にも深く根差していることを証明して見せました。

制作と参加ミュージシャン

ライヴ音源は、主に1978年秋のアメリカ・ツアー中に録音されました。特に、同年11月24日にカリフォルニア州ロングビーチのテラス・シアターで行われたコンサートの音源が多く使用されたと言われています。ザヴィヌル自身、この夜の演奏を「マジックだった」と振り返っており、バンドのコンディションが最高潮にあったことが窺えます。

スタジオ・レコーディングはロサンゼルスのCBSスタジオで行われ、プロデュースはザヴィヌルが担当し、ショーターがアシスタント・プロデューサーとしてクレジットされています。彼ら二人のリーダーシップの下、パストリアスとアースキンという驚異的なリズムセクションがバンドのサウンドを新たな次元へと引き上げました。特にアースキンは、スタン・ケントンやメイナード・ファーガソンのビッグバンド出身でありながら、ウェザー・リポートの複雑でポリリズミックな音楽に見事に順応し、バンドに安定感と爆発力の両方をもたらしました。

発表時の反響と歴史的評価

『8:30』は1979年にリリースされると、批評家とリスナーの双方から絶大な支持を受けました。商業的には、米ビルボードのジャズ・アルバム・チャートで3位、総合アルバム・チャート(Billboard 200)でも47位にランクインする成功を収めました。

そして、その音楽的功績が認められ、1980年の第22回グラミー賞において「最優秀ジャズ・フュージョン・パフォーマンス賞(Best Jazz Fusion Performance, Vocal or Instrumental)」を受賞。これはバンドにとって、『ヘヴィー・ウェザー』の「Birdland」が最優秀ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞(ソロイスト部門)を受賞して以来の快挙であり、バンドとしてのウェザー・リポートが名実ともにフュージョン界の頂点にあることを証明しました。

音楽メディアからの評価も高く、米国の権威あるジャズ雑誌『ダウンビート』は星4つ(5段階評価)を与え、「ついにウェザー・リポートのライヴが登場した!」と、そのリリースを歓迎しました。

今日、『8:30』は70年代フュージョン・ミュージックの金字塔として、またウェザー・リポートというバンドの黄金期を捉えた最も重要な記録の一つとして認識されています。ライヴ・バンドとしての彼らの真価、ザヴィヌルとショーターの創造性、そして何よりも、20代半ばにして音楽史にその名を刻んだ天才ジャコ・パストリアスの輝きが、このアルバムには永遠にパッケージされているのです。ライヴとスタジオ、衝動と知性、個人技とアンサンブルといった、音楽を構成する様々な二元的な要素が見事に融合・昇華した『8:30』は、時代を超えて聴き継がれるべきマスターピースと言えるでしょう。

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