キース・ジャレット『エクスペクテイションズ』

1972年にキース・ジャレットが発表したアルバム『Expectations』(エクスペクテイションズ)はジャズを基盤としながら、ゴスペル、クラシック、ファンク、フリー・インプロヴィゼーションといった複数の音楽要素を取り入れています。オーケストラを含む編成で録音され、ジャレットがコロンビア・レコードから発表した唯一のリーダー・アルバムです。その音楽の内容と制作の経緯から、彼のキャリアにおいて特徴的な作品として位置づけられています。
『エクスペクテイションズ』のアルバムのコンセプト
『Expectations』のコンセプトは、特定のジャンルに分類されない音楽表現の追求にあります。ジャレット自身、本作を個別の楽曲の集合体としてではなく、全体で「一つのもの」として構想していました。アルバムはオープニングの「Vision」から最後の「There Is a Road(God's River)」まで、全11曲が連続性を持って配置され、組曲のような構成をとります。
このアルバムでジャレットは、即興演奏家としてだけでなく、作曲家としての能力を発揮しました。計算されたアレンジと、自由なインプロヴィゼーションのパートが共存している点が本作の構成上の特徴です。
音楽性とサウンド
本作のサウンドは多様な編成によって成り立っています。中心となるのは、キース・ジャレット(ピアノ、ソプラノサックス他)、デューイ・レッドマン(テナーサックス)、チャーリー・ヘイデン(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)によるカルテットです。この4名は、後に「アメリカン・カルテット」として活動します。
『エクスペクテイションズ』では、このカルテットの編成をさらに拡張しています。
- ストリングスとブラス・セクションの活用: 本作ではストリングスとブラス・セクションが導入されています。これらのセクションは、単に背景の音として機能するのではなく、楽曲の構造を形成する要素として用いられています。例えば、表題曲「Expectations」では、ストリングスが曲の展開において役割を担います。また、17分を超える「Nomads」では、ブラス・セクションとカルテットによるフリー・ジャズ的な演奏が展開されます。
- ゴスペルとR&Bからの影響: ジャレットの音楽的背景にあるゴスペルやR&Bの要素も随所に現れます。「The Magician in You」や「Take Me Back」といった楽曲では、ピアノのフレーズやメロディラインにその影響が見られます。
- ギターとパーカッションの追加: ギタリストのサム・ブラウンとパーカッショニストのアイアート・モレイラの参加も、サウンドに変化を加えています。ブラウンのギターはリズムを強調し、モレイラのパーカッションはリズムに複雑さを与えています。
これらの要素が組み合わさることで、本作のサウンドが形成されています。
制作の経緯
『Expectations』の制作には、当時のレコード業界の状況が関係しています。録音当時、ジャレットはマイルス・デイヴィスのバンドのメンバーでした。デイヴィスのバンドはコロンビア・レコードに所属していました。
そのジャレットの才能に着目したのが、当時のコロンビアの社長クライヴ・デイヴィスです。デイヴィスはジャレットを高く評価し、コロンビアと直接アーティスト契約を結びました。この契約のもと、ジャレットは自身の音楽構想を実現するための録音機会を得ました。プロデューサーには、ジャレットが信頼を置いていたジョージ・アヴァキアン(George Avakian)が起用されました。
しかし、アルバムが完成した直後、クライヴ・デイヴィスがコロンビアを解雇されるという事態が発生します。デイヴィスという推進者を失った結果、『エクスペクテイションズ』は新しい経営陣から十分な販促を得られませんでした。ジャレットとコロンビアの契約もこの一枚限りで終了し、本作はジャレットにとってコロンビアでの唯一のリーダー作となりました。
参加ミュージシャン
本作の録音に参加した主なミュージシャンは以下の通りです。
- キース・ジャレット(Keith Jarrett):ピアノ、オルガン、ソプラノサックス、パーカッション、アレンジ
- デューイ・レッドマン(Dewey Redman):テナーサックス
- チャーリー・ヘイデン(Charlie Haden):ベース
- ポール・モチアン(Paul Motian):ドラムス
- サム・ブラウン(Sam Brown):ギター
- アイアート・モレイラ(Airto Moreira):パーカッション
- その他、クレジット表記のないストリングス及びブラス・セクションの奏者
ギタリストのパット・メセニーは、当時まだ無名でしたが、このアルバムの制作現場を見学し、音楽的に影響を受けたことを後年語っています。

発表時の反応と現在の評価
1972年のリリース当時、『エクスペクテイションズ』は批評家の間で評価が分かれました。複数のジャンルにまたがるその音楽性は、一部で評価された一方で、多くのリスナーにとっては分類が難しい作品と受け取られました。そのため、商業的な成功には結びつきませんでした。
しかし、時間が経つにつれて再評価が進みます。1970年代のジャズの動向の中で、本作の持つ音楽的な探求心や構成が改めて注目されるようになりました。現在では、キース・ジャレットのキャリアを代表する作品の一つであり、1970年代のジャズにおける重要な録音の一つとして認識されています。
ジャケットデザイン
アルバムのジャケットは、アーティストのロバート・ホロヴィッツが制作しました。ペンとインクを用いて、風景が描かれています。ホロヴィッツ本人によると、このジャケットのレタリング部分は、資料を参考にして短時間で仕上げられたという経緯があります。

まとめ
『Expectations』は、キース・ジャレットが大手レコード会社で自身の音楽を追求した記録です。ジャズ、クラシック、ゴスペルなど、複数の音楽ジャンルを一つの作品の中で統合しようとする試みでした。コロンビア・レコードとの関係が一度限りであったという制作背景も、このアルバムを特別な位置づけにしている要因の一つです。