ブラック『ワンダフル・ライフ』

イギリスのシンガーソングライター、コリン・ヴェーンコームによるソロ・プロジェクト、Black(ブラック)。
彼が1987年に発表したデビュー・アルバム『Wonderful Life』(ワンダフル・ライフ)は、80年代後半のポップ・ミュージック・シーンにおいて、一際異彩を放つ傑作として語り継がれています。
アルバムのコンセプト:孤独と皮肉の「素晴らしき人生」
アルバムのタイトルにもなっている代表曲「Wonderful Life」という言葉を聞くと、多くの人はポジティブで明るい賛歌を想像するかもしれません。しかし、本作の核にあるのは、「孤独」と「メランコリー(憂鬱)」、そして現実に対する「鋭い皮肉」です。
中心人物のコリン・ヴェーンコームは、このアルバムの制作前、私生活でもキャリアでもどん底の状態にありました。最初の結婚生活は破綻し、以前所属していたレーベルからも契約を打ち切られ、さらには交通事故にも見舞われるという不運の連続だったのです。
そんな中で書かれた「Wonderful Life」は、「なんて素晴らしい人生なんだ」と自嘲気味に、しかしどこか達観した視点で歌い上げる、逆説的な孤独の歌でした。アルバム全体を通しても、都会的な疎外感や、報われない愛、内省的な葛藤が、優雅なメロディに乗せて綴られています。
音楽性とサウンドの特徴:洗練された「ソフィスティ・ポップ」
『Wonderful Life』の音楽性は、当時イギリスで流行していた「ソフィスティ・ポップ(Sophisti-pop)」の流れを汲んでいます。これは、ジャズ、ソウル、ラウンジ・ミュージックの要素をポップスに昇華させた、都会的で洗練されたスタイルです。
サウンドの三本柱
- コリンの唯一無二の歌声: 彼のバリトン・ボイスは、スコット・ウォーカーやブライアン・フェリーと比較されるほど、深みと艶があります。冷徹さと情熱が同居したようなボーカルが、楽曲に文学的な重みを与えています。
- ジャジーなアレンジ: 印象的なサックスのフレーズや、繊細なピアノの旋律が随所に散りばめられ、夜の静寂を感じさせるようなアダルトな雰囲気を演出しています。
- 80年代的なエレクトロニクスの融合: 当時最先端だったシンセサイザーやリズムマシンの音色が、生楽器の温かみと絶妙なコントラストを生んでいます。単なる懐古趣味に陥らない、モダンな響きが特徴です。
制作時のエピソード:どん底からの奇跡
本作の制作過程は、まさに「起死回生」のドラマでした。
当初、コリンは独立系のレーベルからシングル「Wonderful Life」をリリースしましたが、小規模なヒットに留まっていました。しかし、その才能に目をつけたA&Mレコードと契約を結ぶことになります。
再録音された「Wonderful Life」と、それに続くシングル「Sweetest Smile」が全英チャートでトップ10入りを果たす大ヒットを記録。それまで無名に近い存在だったBlackは、一躍ヨーロッパ中のスターダムにのし上がりました。
プロデューサーのデイヴ・ディックス(Dave Dix)とのタッグは非常に強固で、コリンのパーソナルな内面を、大衆に響く商業的なポップ・ソングへと見事に変換させることに成功したのです。
参加ミュージシャンとエンジニアリング
このアルバムの洗練されたサウンドを支えたのは、一流のスタジオ・ミュージシャンたちです。
- コリン・ヴァーンコム(Colin Vearncombe):ボーカル、ギター
- ロイ・コーキル(Roy Corkill):フレットレスベース
- ジミー・ヒューズ(Jimmy Hughes):ドラム
- マーティン・グリーン(Martin Green):サックス
- デイブ・“ディックス”・ディッキー(Dave "Dix" Dickie):キーボード、プログラミング
- ザ・クリーミー・ワールズ(ティナ・ラブリンスキー[Tina Labrinski]、サラ・ラマラ[Sara Lamarra]):バックコーラス
- ジミー・サングスター(Jimmy Sangster):エレクトリックベース
- ドリーン・エドワーズ(Doreen Edwards):バックコーラス
- ザ・シドウェル・ブラザーズ(The Sidwell Brothers):金管楽器セクション
また、ミキシングやエンジニアリングにおいても、80年代特有の深いリバーブ(残響)を活かしつつ、ボーカルの細かなニュアンスを殺さない精緻な仕事が施されています。

トラック・リスト
Side 1
- ワンダフル・ライフ(Wonderful Life) - 4:46
- エヴリシングズ・カミング・アップ・ローゼズ(Everything's Coming Up Roses) - 4:04
- サムタイムズ・フォー・ジ・アスキング(Sometimes for the Asking) - 4:09
- ファインダー(Finder) - 4:12
- パラダイス(Paradise) - 4:51
Side 2
- アイム・ノット・アフレイド(I'm Not Afraid) - 5:00
- アイ・ジャスト・グリュー・タイアード(I Just Grew Tired) - 4:15
- ブルー(Blue) - 3:38
- ラヴェル・イン・ザ・レイン(Just Making Memories) - 4:26
- リーヴ・ユアセルフ・アローン(Sweetest Smile) - 5:19
発表時の反響と世界的な成功
1987年にアルバムが発売されると、イギリス国内だけでなく、ドイツ、フランス、イタリアなど、ヨーロッパ全土でチャートを席巻しました。
特にタイトル曲「Wonderful Life」のミュージック・ビデオは非常に有名です。イギリスの海岸リゾート地サウスポートで撮影された、モノクロの美しい映像は、楽曲の持つ哀愁と見事に合致し、MTVを通じて世界中にBlackの名を広める大きな役割を果たしました。
当時の批評家たちは、「スミス(The Smiths)のような内省的な歌詞を、フランク・シナトラのような声で歌うアーティスト」と評し、その独特のポジションを高く評価しました。
6. 特筆すべきことと、その後の影響
時代を超えた普遍性
『Wonderful Life』がリリースから約40年が経過した今も色褪せないのは、それが「流行」ではなく「感情」に根ざしているからです。孤独を感じる夜、あるいは人生のままならなさを感じた時に、このアルバムはそっと寄り添ってくれるような響きを持っています。
多くのカバーと再評価
タイトル曲「Wonderful Life」は、ケティル・ビヨルンスタやケイティ・メルアなど、ジャンルを問わず多くのアーティストにカバーされています。また、数多くの映画や広告でも使用されており、曲名は知らなくてもメロディは聴いたことがある、という若い世代も少なくありません。
コリン・ヴェーンコームの遺産
残念ながら、コリン・ヴェーンコームは2016年に交通事故により53歳の若さでこの世を去りました。しかし、彼がどん底の時期に生み出したこの『Wonderful Life』というアルバムは、彼が遺した最も美しく、最も誠実な芸術的証言として、今も世界中のリスナーの心の中で鳴り続けています。
このアルバムを聴き終えた時、私たちは「素晴らしい人生(Wonderful Life)」という言葉の本当の意味を考えさせられます。それは決して幸福に満ちた毎日を指すのではなく、悲しみや孤独さえも抱え込みながら、それでもなお生きていくことの美しさを指しているのかもしれません。

