スティーリー・ダン『うそつきケイティ』

1975年に発表された『Katy Lied』(邦題:うそつきケイティ)は、スティーリー・ダン(Steely Dan)が「ツアーを行うバンド」から、ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーを核に一流のスタジオ・ミュージシャンを組織する制作集団へと変身した最初の作品です。
洗練の度合いを大きく進めながらも、都会生活の疲労、孤独、欲望、敗北感を、皮肉と奇妙な優しさを交えて描いた転換点のアルバムでした。
バンド活動からスタジオ制作へ
前作『Pretzel Logic』の成功後、スティーリー・ダンは長く続いたツアー生活に疲弊していました。
ドナルド・フェイゲンは、英国ツアー中に声を痛めたことを契機に、ウォルター・ベッカーとともにライヴ活動をいったん停止する決断をしたと振り返っています。
1974年7月5日の公演が、その後約20年間にわたる最後のライヴになりました。
これは単なる休養ではなく、音楽づくりの方法そのものを変える決断でした。
従来の固定バンド編成ではなく、曲ごとに最適な演奏家を呼び、ベッカーとフェイゲンが細部まで設計する。
『Katy Lied』は、その後『The Royal Scam』『Aja』『Gaucho』へと結実する「スティーリー・ダン方式」の本格的な出発点です。
唯一、旧来のメンバーではギタリストのデニー・ダイアスが重要な役割を残しましたが、ジェフ・“スカンク”・バクスターはツアーを続ける道を選び、のちにドゥービー・ブラザースへ加わりました。
音楽性と物語の世界
『Katy Lied』の音楽は、ロックを骨格としつつ、ジャズ、ブルース、R&B、ポップスの語法を極めて自然に融合しています。
前作で深まったジャズ志向を受け継ぎながら、複雑な和声、わずかにねじれたリズム、細密なコーラス、短くても記憶に残るギターや管楽器のソロが、10曲を引き締めます。
AllMusicも本作を『Pretzel Logic』のジャズ・フュージョン的基盤をさらに発展させた、洗練された作品と評しています。
ただし、音楽が上品だからといって、歌詞の登場人物まで上品ではありません。
倒産と逃避の匂いが漂う「Black Friday」、ニューヨークへの郷愁を歌う「Bad Sneakers」、壊れかけた関係と薬物の影を感じさせる「Doctor Wu」、そして不穏な性的視線を含む「Everyone’s Gone to the Movies」など、ここにはまっとうな人生から少し外れた人々が現れます。
スティーリー・ダンらしいのは、彼らを単純に断罪しない点です。
主人公たちは滑稽で、しばしば自己欺瞞的ですが、どこか哀れでもあります。
後年の『The Royal Scam』ほど露骨な冷笑に至る前の段階であり、フェイゲンとベッカーが比較的「共感的な人物像」を描いていたという評価もあります。
サウンドを形づくった名手たち
参加者の顔ぶれは、このアルバムの音を理解するうえで欠かせません。
ドラムには、当時20歳ながらすでにテレビ番組『Sonny and Cher』の仕事などで経験を積んでいたジェフ・ポーカロが参加しました。
彼のタイトで滑らかなビートは、後年のTOTOにも通じる精密さをすでに備えています。
なお「Any World (That I’m Welcome To)」では、名セッション・ドラマーのハル・ブレインが演奏しています。
キーボードではマイケル・オマーティアンとデヴィッド・ペイチ、ベースではチャック・レイニーやウィルトン・フェルダー、ギターではヒュー・マクラッケン、ラリー・カールトン、リック・デリンジャー、エリオット・ランドールらが加わりました。
作品全体を「バンドの勢い」で押し切るのでなく、各曲に最もふさわしい音色、フレーズ、間合いを配置する発想が、この豪華な布陣を必要としたのです。
聴きどころを挙げるなら、まず「Doctor Wu」のフィル・ウッズによるアルト・サックスです。
ビバップ/モダン・ジャズの巨匠らしい鋭さを持ちながら、曲の疲弊した情感に寄り添うように響きます。
「Chain Lightning」ではリック・デリンジャーが粘り気のあるギター・ソロを披露し、「Bad Sneakers」では若きマイケル・マクドナルドの独特のテナーがコーラスに彩りを添えています。
フェイゲン自身も、これらを作品のハイライトとして挙げています。
参加ミュージシャン
スティーリー・ダン
- ドナルド・フェイゲン(Donald Fagen):ピアノ、キーボード、ボーカル
- ウォルター・ベッカー(Walter Becker):ベース、ギター、ボーカル
- デニー・ダイアス(Denny Dias):ギター
ゲスト・ミュージシャン
- ハル・ブレイン(Hal Blaine):ドラムス
- ジェフ・ポーカロ(Jeff Porcaro):ドラムス、ドロフォン
- ラリー・カールトン(Larry Carlton):ギター
- リック・デリンジャー(Rick Derringer):ギター
- エリオット・ランドール(Elliott Randall):ギター
- ヒュー・マクラッケン(Hugh McCracken):ギター
- ディーン・パークス(Dean Parks):ギター
- チャック・レイニー(Chuck Rainey):ベース
- ウィルトン・フェルダー(Wilton Felder):ベース
- マイケル・オマーティアン(Michael Omartian):ピアノ、キーボード
- デイヴィッド・ペイチ(David Paich):ピアノ、キーボード
- ヴィクター・フェルドマン(Victor Feldman):パーカッション、キーボード、ヴィブラフォン
- キャロライン・ウィリス(Carolyn Willis):ボーカル、バックグラウンドボーカル
- マイケル・マクドナルド(Michael McDonald):ボーカル、バックグラウンドボーカル
- マーナ・マシューズ(Myrna Matthews):ボーカル、バックグラウンドボーカル
- シャーリー・マシューズ(Sherlie Matthews):ボーカル、バックグラウンドボーカル
- フィル・ウッズ(Phil Woods):ホーン(サクソフォーンなど)、ボーカル
- ジミー・ハスケル(Jimmie Haskell):ホーン・アレンジ

トラックリスト
Side 1
- Black Friday - ブラック・フライデー(3:33)
- Bad Sneakers - バッド・スニーカーズ(3:16)
- Rose Darling - ローズ・ダーリン(2:59)
- Daddy Don't Live In That New York City No More - ダディ・ドント・リヴ・イン・ザット・ニューヨーク・シティ・ノー・モア(3:12)
- Doctor Wu - ドクター・ウー(3:59)
Side 2
- Everyone's Gone To The Movies - エヴリワンズ・ゴーン・トゥ・ザ・ムービーズ(3:41)
- Your Gold Teeth II - ユア・ゴールド・ティースII(4:12)
- Chain Lightning - チェイン・ライトニング(2:57)
- Any World (That I'm Welcome To) - エニィ・ワールド(3:56)
- Throw Back The Little Ones - スロウ・バック・ザ・リトル・ワンズ(3:11)
dbx事故という制作上の傷
『Katy Lied』を語るとき、避けて通れないのがdbxノイズリダクション・システムのトラブルです。
フェイゲンとベッカーは、ABC Dunhillのスタジオで新しいdbx機器を使い、より高品位な録音を目指しました。
ところが、ミックス段階でシステムの不具合が発覚し、彼らが期待したような音で再生できなかったのです。
フェイゲンは後年、この問題のために作品が望んだほど「spreem」、つまり最高に素晴らしい音にはならなかった、と冗談めかしつつ悔しさをにじませています。
当事者の証言には、元の24トラック・テープまで影響を受けたのか、最終ミックスの問題だったのかなど細部に食い違いがあります。
しかし、ベッカーとフェイゲンが完成盤の音質に強い不満を抱いていたことは共通しています。
音の完璧さに執着するスティーリー・ダンにとって、この事故は単なる技術的失敗ではなく、理想の制作工程に刻まれた大きな傷でした。
それでも、実際の『Katy Lied』は決して聴きづらい作品ではありません。
むしろ、過剰に硬質・無菌的になり切らないことが、本作の独特の魅力にもなっています。
後の『Aja』のような圧倒的ハイファイの完成形へ至る直前にあるため、曲の湿度や人間臭さが比較的前面に残っているのです。
発表時の反響と重要性
ABC Recordsから1975年に発表された本作は、「Black Friday」と「Bad Sneakers」を軸に売れ、ゴールド・ディスクを獲得しました。
公式ディスコグラフィーでも1975年作として位置づけられています。
ただし「Black Friday」を先行シングルにした判断について、フェイゲンは後年「Top 40ラジオはブルースをあまり好まなかった」と回想しています。
商業的なヒットを狙うには少しひねくれた選曲だったのでしょう。
しかし、そのひねくれ方こそがスティーリー・ダンらしさでした。
『Katy Lied』は、一般的には『Aja』ほど大衆的な象徴作ではないかもしれません。
それでも、緻密な職人芸、ジャズ的な語彙、毒を含むストーリーテリング、そしてセッション奏者を自在に使う制作手法が、初めて一枚のアルバムとして明確に統合された作品です。
名盤への「途中経過」ではなく、後年の完璧主義がまだ少し生々しい感情と共存していたからこそ生まれた、スティーリー・ダンの重要な一作だと言えるでしょう。






Citations:
https://www.allmusic.com/album/katy-lied-mw0000239621
https://www.steelydan.com/news/liner-notes-for-chad-kassem-s-reissue-series
https://glidemagazine.com/311417/50-years-later-steely-dan-shape-inconic-sleek-jazz-pop-mold-with-katy-lied/
https://en.wikipedia.org/wiki/Steely_Dan
https://en.wikipedia.org/wiki/Katy_Lied


