

スティーリー・ダン(Steely Dan)は1971年にニューヨークで結成された、ウォルター・ベッカー(ギター、ベース、バックボーカル)とドナルド・フェイゲン(キーボード、リードボーカル)を中心とするアメリカのロックバンドです。彼らはロック、ジャズ、ラテン音楽、R&B、ブルースなどの要素を融合させた独特の音楽性と高度なスタジオ・プロダクション、そして暗号的で皮肉に満ちた歌詞で知られています。当初は固定メンバーでのライブ活動を行っていましたが、1974年以降はスタジオ・ユニットとして活動し、セッション・ミュージシャンを起用して録音を行うスタイルを確立しました。彼らはキャリアを通じて4000万枚以上のアルバムを販売し、2001年にロックの殿堂入りを果たしました。ベッカーの死後も、フェイゲンはスティーリー・ダンの名前で活動を続けています。
ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンは、ニューヨーク州アナンデール・オン・ハドソンのバード大学で出会いました[9][17]。二人はジャズ、ブルース、ポピュラー音楽、そして現代文学、特にいわゆる「ブラック・ユーモア」に共通の関心を持っていました[14]。大学時代、彼らは様々なバンドで一緒に演奏し、オリジナル曲の作曲を始めました[9][17]。
1969年、バード大学で学業を終えたフェイゲンはブルックリンに移り、ベッカーと共に様々なミュージシャンのバックバンドとしてツアーに参加しました[14][17]。その後、二人はロサンゼルスに移住し、ABC/ダンヒル・レコードの専属ソングライターとして契約しました[14]。ロサンゼルスでギタリストのジェフ「スカンク」バクスターとデニー・ディアスを加え、スティーリー・ダンを結成しました[9][14]。
1972年、彼らはデビューアルバム『キャント・バイ・ア・スリル(Can't Buy a Thrill)』をリリースしました[1][9]。当初のラインナップには、デニー・ディアス(ギター)、ジェフ・バクスター(ギター)、ジム・ホダー(ドラム)、そしてデビッド・パーマー(ボーカル)が含まれていました[12][14]。パーマーはフェイゲンがステージ恐怖症を抱えており、ライブでの歌唱に消極的だったため、レコード会社の要請で加入しました[4][12]。
スティーリー・ダンの最も特徴的な点の一つは、その独特のバンド構成にあります。ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンがバンドの中核メンバーとして機能し、作曲、アレンジ、プロデュースを担当しました[1][3]。フェイゲンは1948年1月10日、ニュージャージー州パセイクで生まれ、ユダヤ人家庭で育ちました[17]。彼の母親は若い頃に歌手として活動していたこともあり、フェイゲンの音楽的な才能に早くから影響を与えました[17]。
初期のバンドは通常のロックバンドの編成でしたが、1974年以降、ベッカーとフェイゲンはライブパフォーマンスから引退し、スタジオのみのユニットになることを選びました[1][3]。彼らは最高レベルのセッションミュージシャンを起用し、完璧なサウンドの追求に徹しました[6]。この特異なアプローチにより、彼らは「70年代の完璧な音楽的アンチヒーロー」と呼ばれるようになりました[1][9]。
デビッド・パーマーは『キャント・バイ・ア・スリル』の中で「ブルックリン(Brooklyn)」と人気曲「ダーティ・ワーク(Dirty Work)」でリードボーカルを担当しましたが、フェイゲンの自信が増し、ベッカーとフェイゲンがスティーリー・ダンをより中核メンバー中心のプロジェクトにしたいという願望が強まるにつれ、パーマーは次第に脇に追いやられていきました[4]。
スティーリー・ダンの音楽は、複数のジャンルの要素を巧みに融合させた独自のスタイルで知られています。彼らの音楽はロック、ジャズ、ラテン音楽、R&B、ブルースの要素を取り入れ、暗号的で皮肉に満ちた歌詞と洗練されたスタジオプロダクションが特徴です[1][9]。
彼らの音楽は、アクセスしやすいメロディックなフック、複雑なハーモニーとタイムシグネチャー、そしてスタジオ録音への献身によって形作られています[13]。フェイゲン自身は2021年のインタビューで、「ウォルターと私はジャズファンだったので、ほとんどのロックギターソロに退屈していました」と述べ、「限られたコード構造に退屈していた」と説明しています[5]。
彼らの音楽にはロック的な要素も確かに含まれていますが、ジャズがその方向性を決める上でより大きな原動力となっていたことは明らかです。この音楽的アプローチは、多くの潜在的なファンを遠ざけた可能性もありますが、彼らに熱心なカルト的なファン層をもたらしました[5]。
スティーリー・ダンのレコーディングプロセスは非常に厳格で、ベッカーとフェイゲンは「強迫的に狂気じみた」と言われるほどの完璧主義者でした。彼らは最高の演奏を得るためにセッションミュージシャンを起用し、時には自分たち自身のアルバムで演奏しないこともありました。ベッカーは「自分のアルバムで演奏しなくても全く気にならない」と述べたほどです[6]。
スティーリー・ダンは長いキャリアを通じて9枚のスタジオアルバムをリリースしました。デビューアルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(1972年)は、彼らのキャリアの雛形を確立し、ビルボードチャートで17位を記録しました[10][12]。このアルバムからは「ドゥ・イット・アゲイン(Do It Again)」(ビルボードホット100で6位)と「リーリン・イン・ザ・イヤーズ(Reelin' in the Years)」(11位)がヒットしました[19]。特に「リーリン・イン・ザ・イヤーズ」のギターソロはセッションプレイヤーのエリオット・ランドールによるもので、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジが「自分のお気に入りのギターソロ」と評したことでも知られています[12]。
その後、『カウントダウン・トゥ・エクスタシー』(1973年)、『プレッツェル・ロジック』(1974年)と続き、1974年にリリースされた「リッキー・ドント・ルーズ・ザット・ナンバー(Rikki Don't Lose That Number)」は彼らの最高位となるビルボードホット100の4位を記録しました[19]。
『ケイティ・ライド』(1975年)、『ザ・ロイヤル・スカム』(1976年)と続いた後、1977年にリリースされた『エイジャ(Aja)』は彼らの最も商業的に成功したアルバムとなり、ビルボード200で3位を記録しました[10][19]。このアルバムからは「ペグ(Peg)」(11位)と「ディーコン・ブルース(Deacon Blues)」(19位)がヒットしました[19]。
1980年に『ガウチョ(Gaucho)』をリリースし、「ヘイ・ナインティーン(Hey Nineteen)」(10位)がヒットしました[19]。この後、バンドは1981年に解散しました[1][9]。
再結成後の2000年にリリースされた『トゥー・アゲインスト・ネイチャー(Two Against Nature)』はグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを含む4つのグラミー賞を受賞する大成功を収めました[1][8][9]。最後のスタジオアルバムとなる『エブリシング・マスト・ゴー(Everything Must Go)』は2003年にリリースされました[1][9]。
2021年には2枚のライブアルバム『ノースイースト・コリドー:スティーリー・ダン・ライブ(Northeast Corridor: Steely Dan Live)』と『ザ・ナイトフライ:ライブ(The Nightfly: Live)』をリリースしています[2]。
スティーリー・ダンのキャリアは大きく3つの時期に分けることができます。初期の1972年から1974年は、比較的従来のロックバンドとしてツアーを行い、「ドゥ・イット・アゲイン」「リーリン・イン・ザ・イヤーズ」「マイ・オールド・スクール(My Old School)」「リッキー・ドント・ルーズ・ザット・ナンバー」などのヒット曲を生み出しました[3]。
第二期(1975年-1980年)は、ベッカーとフェイゲンのみで構成される完全にスタジオベースのユニットとなり、アルバムリリースは洗練されたプロダクション価値への強いこだわりを示し、音楽はますますジャズ志向になっていきました。この時期の頂点は大ヒットアルバム『エイジャ』(1977年)と『ガウチョ』(1980年)でした。しかし、『ガウチョ』の録音プロセスの混乱や両メンバーの個人的な問題により、1981年に二人は別々の道を歩むことになりました[3]。
1980年代には、フェイゲンは記念碑的なソロデビューアルバム『ザ・ナイトフライ(The Nightfly)』をリリースし、一方ベッカーは薬物依存から回復した後、プロデューサーとして頻繁に仕事をしていました[3]。
第三期は1993年にフェイゲンとベッカーが再結成したときに始まり、20年ぶりの世界ツアーを行いました。2000年にはグラミー賞を受賞した『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』がリリースされ、批評家の賞賛と驚くべき商業的成功を収めました。その後続作となる『エブリシング・マスト・ゴー』が2003年にリリースされました[3]。
2017年9月3日にウォルター・ベッカーが亡くなった後、フェイゲンは素材の所有権をめぐってベッカーの遺産との間で法的措置を取ることになりましたが、追加のバンドメンバーと共にスティーリー・ダンとしてツアーを続けています[3][9]。
スティーリー・ダンという一風変わったバンド名には興味深い由来があります。この名前は、ビート・ジェネレーションの著名な作家ウィリアム・S・バロウズの1959年の小説『裸のランチ(Naked Lunch)』から取られたものです[3][11][14]。
具体的には、小説の中に登場する「横浜製スティーリー・ダンIII(Steely Dan III from Yokohama)」という名前の蒸気式の性具(ディルド)に由来しています。ビート作家のファンであったベッカーとフェイゲンは、この参照をバンド名として採用したのです[11]。
アメリカン・ソングライター誌によれば、「ビート・ライターのファンであったフェイゲンとベッカーは、この参照をバンド名として採用し、どうやら面白いと思ったようで、それが定着した」とのことです[11]。この奇抜なバンド名の選択は、彼らの斬新で皮肉に満ちた音楽性と文学的な関心を反映していると言えるでしょう。
スティーリー・ダンは音楽界に大きな影響を残しました。彼らは2001年3月にロックの殿堂入りを果たし[1][9][11]、VH1は彼らを「史上最も偉大な音楽アーティスト100人」のリストで82位にランク付けしました[1][9]。また、ローリングストーン誌は彼らを「史上最も偉大なデュオ20組」のリストで15位にランク付けしています[1]。
彼らの音楽は時代を超えた魅力を持ち続けており、特に2020年頃から「スティーリー・ダンの完全な復活」が起こっていると言われています。その音楽は「無限にミーム化可能」と表現され、「私たちの急速に温暖化する世界は、かつてないほどスティーリー・ダン的になっている」という指摘もあります[18]。
スティーリー・ダンの音楽は、その技術的な複雑さと芸術的な洗練さのために、ミュージシャンからも高く評価されています。例えば、レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは「リーリン・イン・ザ・イヤーズ」のギターソロを「自分のお気に入りのギターソロ」と評しました[12]。
彼らの音楽は「ヨット・ロック」という緩やかなジャンルの先駆けとも見なされていますが、この用語は彼らの音楽の複雑さと芸術性を十分に表現しているとは言えないかもしれません[5]。実際には、彼らの音楽はソフトロックとジャズの影響を融合させた独自のスタイルとして理解されるべきでしょう。
ウォルター・ベッカーの死後も、ドナルド・フェイゲンはスティーリー・ダンの名前で活動を続けています[3][9]。2021年には2枚のライブアルバム『ノースイースト・コリドー:スティーリー・ダン・ライブ』と『ザ・ナイトフライ:ライブ』をリリースしました[2]。
フェイゲンは大編成のアンサンブルとともにスティーリー・ダンの名前でツアーを続けており、彼らの音楽の遺産を守り続けています[5]。また、スティーリー・ダンの作品はコンピレーション、ボックスセット、ライブアルバムとして定期的にリリースされ続けています[1][9]。
スティーリー・ダンの音楽に対する関心は現在も続いており、ファンの間では「ダナイザンス(Danaissance)」と呼ばれる再評価の動きも見られます。ニュースレター、ポッドキャスト、ソーシャルメディアなど、スティーリー・ダン文化は様々な形で成長を続けています[18]。
彼らの音楽は今日のリスナーにも響き、時代を超えた魅力を持っています。スティーリー・ダンは、商業的な成功と芸術的な完全性の両方を達成した稀有なバンドとして、音楽史に重要な位置を占め続けるでしょう。
スティーリー・ダンは、その革新的な音楽性と完璧主義的なアプローチにより、アメリカの音楽シーンに独自の足跡を残したバンドです。ウォルター・ベッカーとドナルド・フェイゲンという二人の天才的なミュージシャンによって導かれ、彼らはロック、ジャズ、その他多くのジャンルの境界を越えた音楽を創造しました。彼らのアルバムは技術的な卓越性と洗練された芸術性を示し、時代を超えた魅力を持ち続けています。
ベッカーの死後も、フェイゲンはスティーリー・ダンの遺産を守り続けており、彼らの音楽は新しい世代のリスナーによって発見され続けています。4000万枚以上のアルバム販売、ロックの殿堂入り、そして継続的な批評家の賞賛により、スティーリー・ダンはアメリカのポピュラー音楽において最も重要で独創的なバンドの一つとしての地位を確立しています。彼らの洗練された音楽性と知的な歌詞は、音楽ファンだけでなく、ミュージシャンにも深い影響を与え続けるでしょう。
Citations: